No.17-3  検証ファイル  その5
投稿者  管理者  2006/03/25(Sat)

当HP上にて今後新設予定の仮称「昔の写真館」の準備段階で、当実行委所蔵写真〔昭和30年代以前の写真〕の中から不明確なものを画像掲示板で紹介し、皆さんで検証してもらおうとの試み、名付けて「検証ファイル」が始まりました・・・今は諸般の事情にて停止状態ではありますが・・・近々再開の予定ですので乞うご期待を。

さて、上の写真、村松太鼓台唯一現存の写真とされるものを掲載したところ、反響がありましたので、実行委として当サイトファンの皆さんの情報をもとに、この際徹底的な検証を行なおうと・・・、その結果、一応「幻の村松太鼓台」についての実行委見解、もちろん左の写真についてもケリらしきお答えを出来るまでに整理がつき、ここに一挙公開 ~ 。

HP画像掲示板 ・ 訪問者書き込み情報ヨリ

◆ 「写真その5」は十年くらい前の伊予三島市報に太鼓台紹介の覧に載っていた憶えがあります。その際、第壱番太鼓 村松 羽白 とありました。

◆ 明らかに川之江の上之町太鼓台です。こんなに綺麗な時期があったんやねぇ 東町とはかなりな親交があったんですねぇ 太鼓台の貸し借りができるほど<まして新調、間もない町の宝物を・・?

No.19-4  検証ファイル  その5 に関して
投稿者  上町東雲會  2006/04/10(Mon)

◆ 【No.17-3】は「写真集」の方でS26-30年とされているのだから、東町ではないのではないですか。

◆ 【No.19-4】(とても貴重な写真ですね)は、火災後の緊急事態で借り受けて運行したけど、とんぼは三島の矜持で赤とんぼ。相応の謝礼をしたのだろうけど、そういう先例があって村松も借り受けたけど、とんぼには頓着しないで黒とんぼ。
何となく辻褄はあう様に思いますが…。
【No.17-3】=【No.19-6】の旗の文字は、予見をもって眺めれば「村松青年団」と裏返しになっている様な気もしますが、何とも言えませんね。
村松太鼓台のもっと鮮明な写真が発見されればいいですね。ところで、集会所火災というのは何かのセリフじゃありませんが「間違いだらけの武勇伝」、太鼓に遺恨ありの‘放火’だったのですか。

◆ 昭和21年という戦後の混乱期の中に於いても太鼓台の運行があったのですね!
そういえば、村松の親戚から太鼓台があった話を聞いたことがあります。年代は定かではないのですが・・・昭和20年代の頃の話の様です。その頃は、太鼓台の貸し借りもあったらしく、旧川之江市内から借りてくることが多かった様です。
現在、60代以上の方だと、知っている方も多いのではないでしょうか?私も村松に住んでいたことがあり、村松の太鼓台の話に興味がありますので、写真や文献を持っている方がいれば、こちらの掲示板に返信頂きたいと思います。

◆ こんばんは!井地太鼓台の写真は、やはり上分上ノ町からのレンタルです。2年連続レンタル しかし3年目は東町に先を越されたそうですが、当時兵隊さんの復員が多く、気の荒い暁部隊上がりの若者が大きな喧嘩をしてもめ 破損、その後上ノ町は貸さなくなったそうです。 当時の青年団長談

◆ 私が幼少の頃の話で不明確ではありますが今は亡き祖父の話で村松には太鼓台が2台あったと聞き覚えております。本当でしょうか?

◆ 「村松太鼓台が壱号だったのは、三島で一番最初に出来た太鼓台だからや・・・その代わり、無くなるのも早かった・・・」と、父が言っておりましたが・・・
父の村松太鼓台の思い出は、すでに借り物の時でして・・・お役に立てなくて申し訳ありません・・・m(_ _)m

◆ また、役に立たない話ですが・・・(^_^;) 「太鼓台は《ポンプ車》になった」そうです・・・(昭和の初め頃だそうです・・・?)「よそ様から借りて運行していて太鼓台が横倒しになり、怪我人がたくさん出た」とも、言っておりました。

その他・当事者筋情報

※ 新 浜 太鼓台 関係者
『S二十五年頃まで三年に一度程度の周期で村松町に貸していた・・・』
理由は、当時の三島では、太鼓台の号数が三年運行しないと剥奪されるという事から、壱番太鼓 ? の号数を保持していた村松町は最低限の運行を行い、どうにか号数を守ろうとしていた、と川之江新浜地区古老の記憶に残る。

※ 上之町 太鼓台 関係者
「東町太鼓台へ貸与した次の年に村松町に貸与、村松町が太鼓台を傷めた為にそれ以降は貸与していない」との話が上之町古老の記憶に残る。

※ 村 松 太鼓台 関係者
祖父が最期の運行当時世話人 ~ 
『村松太鼓台が出ないので、上之町より借りて出した・傷めて祖父ら世話人が弁償で苦労』

※ 東 町 太鼓台 関係者 
『敗戦前に集会所が火事になり、戦前、暁部隊の兵隊が大勢いた頃に上之町から借りて一回運行した・高張り提灯は戦争中は自粛、戦後再開しS25年頃まで立てていた』

※ 宮 司・露天商関係者
『村松太鼓台は戦前頃までは運行していた』

※ 村松地区   関係者〔 S10年代生まれ〕
『S20年代にはあった、俺も乗せてもらったので間違いない』

※ 村松地区   関係者〔 T 2年 生まれ〕
『2歳の時、火災により焼失したとの聞き覚えがある。S32~35年頃まで運行していたと記憶、上分、 新浜から借り受けていたようで上分の太鼓を傷め弁償問題があった・当時の太鼓倉は現小出改築センター裏・最期の青年団は昭和7年生まれの・・・さん ? 』

検証・村松太鼓台 ~ 分析 ~ 結論

《 【No.17-3】について、まずこの写真の疑問点のおさらい ~ 》

この写真、実行委にてS27年村松太鼓台〔下之町太鼓台から借受け〕と推定されていた写真。ところが東町が焼失していた時期に上之町太鼓台を借りて運行した写真が出てきた。【No.17-3】が果たして村松の運行か ? 東町による運行か ? との疑問が生まれる・・・

何故なら【No.17-3】以外、他に村松太鼓台の存在を示す写真が一枚もなく、旗の色も東町と同じ白色、撮影場所も東町集会所〔現タイカワ付近〕の近くである事などより。

《 寄せられた情報からの分析 》

東町がS16年~17年に新調した太鼓台をS22年頃の集会所火災にて焼失したのであれば、S21年記念撮影の残る井地太鼓台〔上之町より借り受け〕は、2年程上之町借受けで運行し翌年は東町に先を越された〔祭り日程との関連は不明〕との井地伝聞に基づき、東町はS22年or23年に上之町借受けにて運行したとの推定は可。

東町の上之町借受けの翌年に村松へ貸与との上之町伝聞からするとS23年or24年から実行委推定資料上のS27年頃までの間に村松が借受けたとの推定も可。

但し、ここにきて二台説、火災焼失説、消防自動車購入説、35年最終運行説等もあり・・・村松が太鼓台を運行する上での体制が町であったのか、青年団としてのみの意志によるものだったのか、何故なら消防自動車購入の為に太鼓台を昭和初期に何らかの形で放棄したのなら、町には第壱号or壱番太鼓〔ともに未確定〕の称号を保持する意志はないと考えられるが、火災焼失なら又違った話にもなる。

次に二台説について、まず村松を形成する部落が四つ在り、太鼓台保有はその中の村松であったという事、【No.17-3】の写真の最終上之町借受けによる村松運行時の世話人親族情報による『村松が出さなかったから大僧に住むうちの祖父達が・・・結局太鼓台を傷め・・・云々』を合わせて考えると村松太鼓台の最終運行時は村松町村松部落が運行したのではなく、村松町大僧部落の運行という事から、『二台説』が浮上する事も考えられる。

35年当時までの運行説については、その年代の写真なら他町太鼓台には多数存在する中、村松太鼓台の写真が皆無という事がネックとなる。
村松町村松が借りて運行したのは新浜太鼓台、新浜より借受け運行を裏付ける写真はないが、おおよそ双方伝聞の一致。村松町大僧が借りて運行したのは上之町太鼓台との推定も考えられる。

《 結論 》

各自証言自体まちまちで年代等どれが正しいと断定出来難いという事を前提とした以下結論。

◆【No.17-3】は下之町借受けでは無く、上之町太鼓台を借受けての村松太鼓台。

◆ 撮影時期は、昭和23年 ~ 27年にかけて。
  ※ 写真裏書が27年とあるが・・・証言からは23~24年と推定。

◆ 大正もしくは昭和初期に焼失か売却して無くなった村松町太鼓台はその後、昭和25年前後頃まで川之江・新浜、上之町太鼓台を借りて運行。

◆ 号数は不明、記録無し。

村松太鼓台の号数について

三島祭りについて最古の記録として残るものは寛政元年〔1789年〕の讃岐屋庄兵衛・新崎屋半治~古文書、或いは嘉永2年〔1849年〕の川原町太鼓台掛蒲団縫下絵等があるが、「三島で初めて作られた太鼓台が村松」との記録は見当たらない。

大正昭和にかけて西町太鼓台から始まる現在の並びも写真等で明確である以上、村松太鼓台宮入の順に関わる号数を具体的に村松第壱号or壱番太鼓と推定可とするには至らない。 

※   讃岐屋庄兵衛・新崎屋半治~ 讃岐屋とは現本町商店街に位置していたらしい、新崎屋は不明。現存する太鼓台関連文献中、最古の資料と村松との関連性は無し。

旧三島町の号数とは無関係に村松町での第壱号か、壱番太鼓だったのか ? 村松町での第壱号なら百年出ずとも村松町には太鼓台は一台、号数守る為に三年事に出す必要もないのではないか ? それとも旧三島町の太鼓台の並びとは別格の意味での第壱号or壱番太鼓の称号 ? で、特別に守らねばならない意味があったのか・・・それにしては昭和初期には既に消防車を導入する為に・・・云々の伝聞も在り、又、あっさり、S25年頃であきらめたもの・・・などなど、第壱号or壱番太鼓の伝聞故の「何故 ?」という疑問も発生する。

仮に30年代まで運行していたのなら弁償問題が影響しての太鼓台の運行停止とは考えられず何故守るべき第壱号or壱番太鼓がその後伝承されなかったのか ? 。

否定も肯定もしないが、実証に結びつく資料が皆無なだけに、第壱号or壱番太鼓について現時点では、どこの町にも『うちの町の太鼓は・・・』とのお国自慢的意識はあり、現段階において可能な限りの資料分析の結果として、あくまで村松第壱号or壱番太鼓説は伝聞の域内の話となる。

村松太鼓台が復活した場合

村松第壱号or壱番太鼓であったとしても、半世紀に渡り三島神社への太鼓台奉納を取り止めている村松町、太鼓台を復活した場合、旗印・宮入順をそのままとして継承する資格を有するか否か、三島神社奉納太鼓台保有の各町協議した上での結論に委ねる他ないだろうが、願わくば、何よりも一番だろうと最後尾でも、在りし日の村松太鼓台の復活を期待したい。

上之町太鼓台から借受けて運行した三町
〔井地・東町・村松〕

S21年 井地太鼓台
S22~23年 東町太鼓台
【No.17-3】S23~24年 村松太鼓台