もともと秋祭りは、豊年の秋を寿ぎ、神様に新穀感謝するもので、幟や提灯を掲げ、御神輿に乗った神様に黄金に実った様子を見て頂くためのもので、神輿行列には、神職をはじめ総代、幟、鉾、家躰(やたい)などが列をなし、太鼓を打ち鳴らして厳粛に行われていたものである。

その祭礼形態から、山車そして現在の太鼓台の奉納という形にいつ頃なったのかは定かではない。一説によると太鼓台は、京都の祇園祭に登場する「かき山」に原型が求められ、安土桃山時代、大阪堺の豪商が作らせたとも言われている。また、平安時代以降、次第に京都祇園祭が有名になり、御神輿に供奉(ぐぶ)する山車が盛行し、この山車に太鼓が積まれ、鉾や装飾が施されるようになり、江戸時代に入り、元禄年間(1688~1703)に商業の中心地、上方を軸に町人文化が開花するとともに派手になり、町人文化の爛熟期を向えた江戸時代後期の化政期(1804~1830)には、現在のような蒲団を積み重ねた形や形状の異なる多彩な太鼓台が作られたとも言われている。化政期は、知識人の文化交流や社寺参詣の流行などによって中央の文化が地方に伝えられた時期であり、海上交通の発達も起因して、太鼓台が一気に瀬戸内沿岸や他の地方に伝わったと考える説もある。又この他、村上水軍由来説や豊臣秀吉の大阪城築城の石材運搬由来説、各地で独自の発展を遂げていった説等いろいろ考えられており、各種の説が飛び交う中、あくまでも推測の範疇を脱しておらず、定説といったものはないと考えられる。

太鼓台は、瀬戸内沿岸に集中して見られるが、中でも四国は太鼓台の一大宝庫と称されている。

『 写真集 伊予三島 まつりと太鼓台 想 神 匠 』【太鼓台の起源に関する考察】より

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愛媛県東予地方における太鼓台の歴史に関する考察】・【伊予三島の太鼓台の歴史に関する考察】・【昭和時代の三島の太鼓祭り】 三島地区 ■寒川・豊岡地区 ・ 【伊予三島太鼓台の特徴】 ・ 【五色の由来】の項目に渡り詳細に三島祭りを分析、豪華上製本でありながら、3600円と低価格化の実現で他書籍比較なら市場価格の三割程度のお求め安さです。